日曜日の朝

毎週日曜日朝8時30分ごろ更新。役に立つことは書けません。

夫が入院したときに思ったことなど

↑ランキングクリックお願いします。
 
大河さんが1週間入院した。
病院まで救急車で運ばれた大河さんは検査に回り、私は待合室で入院の同意書類に大河さんと自分の名前を書きまくった。これまで最初の3桁しか覚えていなかった大河さんの携帯番号をフルで暗記した。怪我の功名である。
 
コロナ禍ということで入院中の面会はできなかった。
入院初日に部屋に案内してもらって大河さんに会った。具合を聞いたり、病人感を出しながらベッドに横になってくれたり、入院中に持ってきてほしいものを聞いたりと10分もしないうちに別れた。
この週で直接顔を見たのはこれが最後だった。まだまだ週の半ばだった。「コロナで死んだら骨も焼いてあげられない」その怖さが首筋に張りつく。今回は十中八九死なないだろうと思いこんでいるけど、もし万が一死んでしまう病気だったらどうしよう。
 
病院までは徒歩なら40分0円、電車なら40分で400円みたいな変わった立地なので歩いて帰った。誰にも言っていないが交通費を浮かせる趣味がある。
夜、暗く見知らぬ道をひとりで歩くのは少し怖かった。よりによって街灯が少ないエリアだった。肌着や携帯の充電器など持ってもう一度病院に戻る必要があり、荷物の引き渡しの時間も迫っていた。焦りは目の前の道を隠し、何度か回り道を余儀なくされた。
帰ってコートを脱ぐや否や、旅行用のボストンバッグを広げてパンツと肌着をありったけ詰めた。「コロナ禍なのでなるべく荷物はまとめて渡してほしい」と言われたのでそうした。タオルや部屋着は病院のレンタルを頼んだ。
暇つぶし用のパソコン、スイッチ、愛されている成猫くらいの重さの本、どこかのアメニティのシャンプーなど片っ端から入れていった。
「荷物だいたいまとまったよ。紙コップいる?水飲むときとか」
「あってもいいかも。歯みがきのときも使えるし」
「歯みがきは完全に忘れてた、ありがとう」
最後にふせんに料理研究家コウケンテツさんの絵を描いた。バッグを開けてすぐのところに貼った。
 
今わが家ではコウケンテツさんが大流行している。経緯は以下のような感じ。
去年届いた町内報に近隣病院の連絡先がまとまっており、念のため切り取って冷蔵庫に貼っておいた。
1年ほど経ったある日、静かに切り抜きが剥がれ、裏面に朗らかな笑顔のコウケンテツさんがいたことに気づいた。「しめた、一笑い取れるぞ」とコウケンテツさんの面を表にして張り直す。
「冷蔵庫に異変を感じない?」数日経って聞いたら「なんかさ、ひとり増えてるよね……?」と言ったので笑ってしまった。「ふたりとも知らなかったけど裏面にずっといたんだよ。この笑顔でさ。ありがたいよね」「ほぼ守り神だもんね」
それから事あるごとに笑顔のコウケンテツさんの真似をしては「あっコウケンテツ先生こんにちは」「はい、こんにちは」「あっコウケンテツ先生だ。こんばんは」「はい、こんばんは。いつもありがとうございます」というやり取りをしていた。脳内コウケンテツ先生は厳かな人だ。家に盗聴器が仕掛けられていたら”ヤバい家”と思われたかもしれない。
そういうやり取りがあってコウケンテツ先生の絵を描いた。この笑顔を見て少しでも元気になってくれたら、と願っていた。
 
入院中は家にひとりだった。実家に帰ることも考えたけどもしなにかあって呼び出されたら、とやめた。
 
昼間、家にひとりなのはいつも通りだけど夜もひとりなのはめずらしい。
「たまには僕のこと置いといてゆっくり羽を伸ばして」と言ってもらったけど、帰って来る人がいない生活はほんとうにつまらない。ご飯をつくっても食べてくれる人がいない。同じ姿勢で同じことをして、ぬるま湯に浸かりながら窓から入る日差しだけが変わっていく。誰かが帰ってくる、というのは自分にとって必要なメリハリだったらしい。
大河さんが帰ってくるまでずっと同じことを思い出していて、それについても今度書く。
そうそう、このブログをつくったのは入院中だった。なるべく毎週日曜の午前中に更新しようと心がけている。これは入院中やった大きなこと。大事に続けていきたい。自分にとっての書くことについてもいつかまとめたい。
 
入院中、一度だけ洗濯物の回収と荷物の追加を渡しに行った。昼間だったので40分歩いた、夜じゃなくても若干迷った。道中大河さんに連絡を取って、病室の窓からの写真を送ってもらった。「終わったらそこに行くね」と約束した。視力のせいで大河さんのことが見えるか心配しつつ。
受付に荷物を預けて、病棟の担当者から荷物をもらう。
病院のまわりを歩いて、送ってもらった写真と合致するところに立つ。ほどなくして大河さんが来た。「いるいる」「おお、ほんとにいる」「点滴見える? 病人感出そうと思って持ってきた」「あ、見える。わざわざ持ってきてくれてありがとうね」「どういたしまして」
通話可能なエリアだったのでそのまま5分ほど電話した。具合はどう? とか早く退院できたらいいね、とか入院時の基本セットを話していた。一緒に暮らし始めて1年半、ほぼ毎日顔をあわせていた。急なタイミングで離ればなれになり、4車線挟んだような距離でしか顔を見られない。見られた顔も米粒より小さい。毎日元気に一緒にいられるのってありがたいことだったんだな。そう気づく反面、こんな方法では知りたくなかったな、とも思った。
 
ほどなくして退院を迎えた。
退院初日に固形のお米や煮物を食べさせたら晩からしっかり腹痛を起こし(消化器系のことで入院してた)、あわや再入院かと怖気た。なんとか翌日に痛みが落ち着いて再入院はしないで済んだ。「退院したのに食べたいものも食べられないなんて……」と悲しんでいる大河さんのために鍋いっぱいの重湯とおかゆをつくっている。
今回得た知識は「重湯はお湯に片栗粉でとろみをつけたものではなく、実際はゆるいおかゆの上澄み」。つくり方も覚えた。
 
他人が痛みを感じているとき、自分の無力さを痛感する。どれだけ痛がっていても半分もらってあげることもできない。患部をさすって「少し楽かも」と言わせてあげることしかできない。私が神様や神通力を持つ存在だったら「ちぇい!」と叫んで痛みをなくしてあげるのに。
ただ今回の痛みは1ヶ月かけてゆっくり悪化していったものだ。それが1週間やそこらではい終わり、完治、と治ることはないはずだ。どんな病気もだんだん進行していって、進行したのと同じくらいの時間をかけて治っていくのだから。骨でさえ折れるのは一瞬だけど治るのは3ヶ月かかったりする。
だからこれは少なくとも来月までは続くものと思っていないといけない。自宅療養しながら「いつまでこの暮らしが続くのか?」と不安になるよりは「回復の入り口に立つには最低でも1ヶ月は必要だよね」と覚悟しておく方が気が楽だ。少ない食事量で栄養を摂らせるのが苦労しそうだけど、これを機に食事や栄養のことをちゃんと勉強するのもいいかもしれない。
 
おしまい