6月20日~26日 闇医者なのでそういったことはしない
■6月20日日曜
夫のへそは深く暗い。私の親指をすっぽりと包む。
自分のへそが標準だと思って生きてきた。初めて夫のへそを見たときは感じ入ったものである。このような蟻地獄めいたへそもあるのか。
ある日どんなきっかけか夫のへそを見やると不穏な気配がした。目を凝らして見ると大きな声が出た。蟻塚があるではないか。蟻地獄のような深いへその底から鋭く聳え立つ蟻塚。黒く、底はどっしりと広く、先端はきらめくほど尖っている。美しい円錐形のひとつとして算数の教科書に載せてもよいくらいだった。
とは言っても夫のからだに白アリが巣食っているわけではなく、よく見れば埃の塊なのだが、妙に立派なので圧倒され、写真に収めた。
どうやら夫のへそが深すぎて奥の方がうまく洗い切れずに長い時間をかけて埃が蓄積され、蟻塚となったらしい。夫に言ったら「えっ、やだ、すごい汚いじゃん……」とへこんでいたので毛抜きで取ってやった。ティッシュに取りあげてふたりでまじまじ見つめた。捨てるのが正直ちょっともったいなかった。めずらしいから。
また少し前、へそを見ると蟻塚ができている。もちろん夫のからだに白アリが巣食っているのではない。例によって埃である。
前回に比べて幾分か小ぶりなので、頼み込んでしばらくそのままにさせてもらった。もう少し育ってからきれいにするつもりだった。ヘンゼルとグレーテルに出てくる魔女と同じ発想だな。こういうときに人間性が出るんだ、しょうがないな。
いよいよ今日、蟻塚のようすを見てみたらさほど育った感じがしない。どうしようか。夫に聞いたら「汚いからきれいにして」と言われたので仕方なく蟻塚摘出手術を行った。
軽い気持ちで始めた手術は思いのほか難航した。ヘンゼルとグレーテルが片時も離れないように、私はここにあることが自然なのですと言わんばかりに患部と蟻塚は癒着していたのだ。
蟻塚の先端は毛抜きで容易に取れるが、底の方がしっかりへそと癒着している。幅広の毛抜きでは奥の方は摘まめない。へそはジャングルよろしく奥まれば奥まるほど年季が入っており、埃と垢と皮膚が固く強く結びついている。手ごわい。イヤイヤ期か。
毛抜きの他にらせん状の耳かきも使った。さいわい家に2本あるので使っていない方に登場してもらった。しかしへそはあまりいじると腹痛を引き起こすので軽い力で行う必要がある。これが難しい。ちょっとこする程度ではかけらも取れないのだ。
本格的な手術をやる必要が出てきたので夫には横になってもらい、スマホのライトを持ってもらってスタンド代わりをお願いした。夫のへそは深く暗いのだ。ライト代わりになってもらうのは夫の奥歯に挟まったえのきや肉を取るときもやってもらっているので手慣れたものである。しかし夫はからだのあらゆる奥部分の清掃を私に頼んでいるな。
まずは耳かきで全体を軽くなでる。なでて取れる分なんてたかが知れている。戦であれば一足飛びに敵の大将を取りたいが、これは手術なので焦ってはいけない。道をつくらないと。
夫が「痛くしないで……!」「それ痛くなりそうだよ!」「怖いよ~~~」「でもきれいにして……」とひんひん言っている。教科書には湿らせたコットンをへそに突っ込み埃をふやかしてから摘出すべしと書いてあるが、私は闇医者なのでそういったことはしない。へそ専門のブラックジャックなので。やんわりと時間をかけてこそいでいく。
ただ少し力を入れると「痛くなりそう……」と言うので今日は取り切れんかもしれないと一抹の不安を覚える。細かい埃や垢は取れているけど、シミのように広範囲が灰色になっている箇所が一向に小さくならない。やっぱり正規の手順の方がいいのか。一応椿油をしみこませた綿棒でこすったりもしているけど、そんなもんじゃとても太刀打ちできない。
手術開始から10分ほどして夫が寝た。横になると10分以内に寝る人である。
ライトスタンドが機能しなくなり、ひとりでライトスタンドと執刀医を兼任する。歯医者のあのライトが急激にほしくなる。体感でOSADAのライトを使っている歯医者が多いが人気ブランドなのだろうか。
ちなみに歯医者の施術中目を開けてると言ったら夫が「怖!」と大笑いしていて少数派らしいと知る。みんな先生の顔見ないの?
夫は一度寝るとそうそう起きない。もしかしてチャンスか。さっきより少し力を入れてへそをこすっていく。夫はちらと身じろぎもせずぐうぐう寝ている。われ勝機を見出したり。
耳かきを使ってへそを強めにこすっていく。あとでおなかが痛くなること必至な強さ。今後一生へそが汚いよりは一時的に痛くてもきれいになる方がよかろう。
さっきまで微動だにしなかった灰色のシミ部分がわずかに端からこそげてくる。浮いた部分を毛抜きで回収しティッシュの上に並べていく。手術における麻酔の必要性を肌で感じた。夫も同じ気持ちで寝ていただろう。麻酔抜きだったら患者がうるさすぎて手術どころじゃない。「素人は黙っとれ」と絶対に言ってしまう。
漫画『漂流教室』で主人公の翔ちゃんが盲腸をやって医者志望のクラスメイトにほぼノー麻酔で手術してもらうシーンがある。クラスメイトの彼だって麻酔したかったに違いない。とは言えこのときは敵対勢力(のちに和解)に翔ちゃんの不調を気取られないために、手術中はどんなに痛くても絶対に声を出さないという約束の元実行されていた。思い返せば小学生のくせにおそろしい胆力である。だから翔ちゃんはリーダーを務めあげられたんだろうなあ。
確か最後の方で幼馴染の女の子が麻酔効果のある草花を持ってきてくれて麻酔をしていた。できればそれを待ってから手術してあげてほしかった。麻酔効果のある草花が敵対勢力の敷地にあって、殴られながらも必死に取ってきていた気がする。こちらもまたすごい胆力。最後この子のために帰れないのだっけ。
麻酔のことはさておき、大きなシミのような垢の端を毛抜きで挟めても、癒着がひどくてちょっとやそっとの力では剥がれない。「ぎりぎり皮膚とかかさぶただったらどうしよ」と不安になりつつ、ままよと取ったら案の定垢だったとパターンを何度もやった。シミの一部が赤くなっていたのは今思えばTシャツの繊維だろう。新手の黒ひげ危機一髪。よもや夫も寝ているうちにへそで黒ひげ危機一髪が行われていたとは思うまい。
体感1時間ほどして夫のへそからすべての垢が取り除かれた。ティッシュに取れた垢や埃を並べていたら手練れの下着泥棒からの押収品展覧会のようになってしまった。夫を起こして披露したら「きっっったな……」と唖然としていた。
一番の大物は米粒3~4個分の大きさだった。しっかりと固いし黒い。手でつぶしてもつぶれない強度。それが2個ほどある。恐ろしいへそだ。
丹念な手術のかいあってへそは見違えるほどきれいになった。取れた垢たちよりもよほど大きな達成感に包まれている。皮膚の色が均一で、なめらかで、明るい。発光しているよう。きれいになったのが嬉しいのでたまにへそを見せてもらっている。夫も一緒になって「きれいねえ」と惚れ惚れしている。楽しかったしこれ仕事にしようかな、へそ医。臍中医?
手術と並行して洗濯をする。台所に吊るしているハンドタオルがどれもにおうので試しに衣類用漂白剤に漬けてから洗う。干してから定期的に嗅いでみると全然におわない。こんなことがあるのか。科学は偉大だ。夫と小躍りする。へそもタオルもすっかりきれいになったおめでたい1日。
■6月21日月曜
ルーンファクトリー5をやらなくなったのですることが一気になくなった。さみしい。
その分他のことに充てられる時間が当然増えているのだが、やりたいこととしたい気持ちは別なのでそうそううまく着手しない。冷蔵庫と違って隙間ができたらすぐに詰められるというわけではない。人の心の難しさ。
深夜Plastic Treeを聴く。高校生のころ、仲良くしてもらっていたテキストサイトの管理人が好きだと言っていたのをきっかけに聴くようになった。東北に住んでいる方で、一度プラのライブで会おうという話になったが、どういう理由でか会わなかった。ライブには行ったから相手のチケットが揃わなかったのかもしれない。文通で知った文字の独特さや、便せんにしみついたお香の匂いを忘れない。においを言葉にすることもできないのに、もう10年覚えている。
時期を同じくして、もうひとり当時から仲良くしてくれているテキストサイトの管理人がいる。というか全員同じマイナージャンルに属していて、全員知り合っている。大変悲しい事実だがジャンルのメンバーはこれですべてだった。とにかくドマイナージャンルだった。
後者の人とは今もTwitterでつながっていて、たまに締め切りを合わせて創作もする。そのタイミングで前者の人のサイトを訪れ、空気感を吸収することがよくある。この人の文章がひとつの理想だった。
この人が今も創作をしていたらどんな文章を書くんだろうとか、そういえば各々同士で連絡は取っていたけど3人で同時に連絡を取り合うことはなかったなとか。当時私は携帯電話しか持っていなかったしLINEのような連絡ツールもなかった。大事なメールは消えないように鍵をかけて、SDカードにもバックアップを取っていた。
ふと思い立ってサイトのメールフォームから連絡してみる。メールアドレスを交換していた気もするけどもうとっくになくしているし、自分のアドレスは変わっている。相手のもきっとそう。
だからあの人のサイトに登録されているアドレスも随分古いものだろう。メールフォームから送っても音沙汰がないことはわかっている。それでももし可能性があるなら試さずにはいられない。わざわざこんなに重たいふたを開ける必要なんてないのに、わからないままにして希望を持っていればいいのに。
祈るような気持ちになる。添えたTwitter宛てに連絡が返ってくること、相手が元気であること、彼女が望む環境に身を置いていること。
ほどなくしてTwitterにフォロー申請があった。
「えっ?!?!」とどきどきしながら開いたら出会い系誘導アカウントだったので即時ブロックをして寝た。タイミングが悪すぎるだろ。
■6月22日火曜
新型コロナウイルスワクチンの1回目の接種。大手町の大規模接種センターへ。Googleアプリが大規模障害で落ちており、検索が使えない状態。出先が地図が見られないことに家を出る直前に気づいた。夫に地図のスクショを送ってもらったのでなんとかつけるだろうと改札を出たら「大規模接種センターこちら」の看板を持った職員らが等間隔に立ってくれていたので助かった。
迷わず着くことができ、接種もスムーズ。予約枠がすべて埋まっているにも関わらず、到着から15分もしないくらいで接種が終わった。噂には聞いていたけど本当に早かった。
副反応も1回目だからか筋肉痛的な痛みがあるだけ。腕を持ち上げたり後ろに持って行くと痛いものの、気をつけていればまったく問題ない。接種1回目でも3週間ほど経てば発症を80%ほど抑えられるらしい。2回目を打ち終わるまで引き続き気をつけてすごす。
と、言いつつ。久しぶりに大手町まで来たのでそこらを歩く。
オアゾの丸善で手塚治虫『ブッダ』の2、3巻を買って、タントマリーの閉店を嘆き、大丸で楽天チェックをやって、適当ないすに座って『ブッダ』を読んで、桃とクッキーを買って帰った。桃は3個1,550円と2個1,260円とがあって迷っていたら、桃2個+りんご+オレンジで1,080円の謎パックが出現したのでそれにした。よくわからないけど何か2個くらいタダになっている。
たまにはこういうことをやらないといけない。外出先の休憩スペースで本を読むみたいな行動でしか養えない器官が人体には備わっているから。
2020年8月11日の西日本新聞を読む。以前土鍋を買ったときに緩衝材としてやってきた新聞である。
1945年の沖縄戦で、首里の司令部壕で戦闘を指揮した牛島満司令官のお孫さんについての記事を読む。
「(牛島司令官は)米軍が首里に迫ると抗戦するか、沖縄本島南部に撤退し持久戦を続けるか決断を迫られ、45年5月27日に南部撤回を開始。多くの住民が戦闘に巻き込まれ、犠牲者が激増した」。「米軍は降伏勧告したが6月19日に最後の命令を出して、同22日に摩文仁の司令部壕で自決した」。
最後の命令というのが「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」というもの。糸満市の平和祈念館では「牛島司令官の自決が戦闘の終結ではなかった。この命令で最後の一兵まで玉砕する終わりのない戦闘になった」と解説されているのだそう。
また牛島司令官は「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ」という辞世の句を残している。
「秋になる前に枯れる沖縄島の若者の命は、本土決戦に勝利して春になった天皇中心の国によみがえるだろう」……。
こういった司令官の行動に対し孫である牛島貞満さんが次のように言っている。
「祖父は必ず本土決戦があると信じて疑わなかった。天皇中心の国の体制を守るために沖縄で時間を稼ぐ。大本営に対して、持久戦継続をよりアピールする作戦として、南部撤退を選んだ。『最後まで敢闘』と命令して自決したのも、司令官自らが死ぬことで『終わりなき沖縄戦』を完成させようとしたのだろう」。
戦争のこはとまったく詳しくないのだけど、読んでてきつかった。
父が昔「作家は「時は江戸」と1行入れるだけで、そのドラマをつくろうとしたときに多額の金を使わせることができるんだ」と言っていたが、それが人の命でできてしまった時代だったのだろう。
夫の祖父も戦争を経験しており、「天皇陛下万歳と言いながら特攻するやつなんかいなかった。みんなお母ちゃんって言いながら死んでいった」と言っていたらしい。上へのアピールと、それを遂行する下の者。銃でからだに穴が開かないだけで、今だって構図は変わらないんだろうな。深夜やりきれない気持ちになる。
こういったオチもないし暗いし、な話を夫はうんうん言いながら感想を交えて聞いてくれるので感謝している。銃撃するゲームをしながらだからめちゃめちゃ皮肉なんだけど。
■6月23日水曜
「知り合って10年、付き合って7年、同棲して半年にもなると惰性や情で付き合い続けてしまう」というツイートを見た。そうえいば惰性で何かを続けた経験ってあんまないかもしれない。
何かやっているのに忘れているのかもしれないが、自分の性格的に惰性で続けられるほど我慢強くないので多分本当にやっていない。幼少期は超がつくほどの癇癪持ちで、何か我慢できないことがあると泣いてその場からてこでも動かなった。ほぼ子泣きじじいと同じ性質。そんなやつが惰性で何か継続できるはずがない、辛抱強さは親の胎に置いてきた上に他の兄弟が根こそぎ持って行った。
夫に惰性の経験があるか聞いてみる。「惰性で生きてるって思ってるよ。やりたくてやってることもないし」との回答。もちろん死にたいわけではないよと註がついた。
「生きていることは楽しくない」のと、「かと言って死にたくもない」という気持ちが両立するのは知識としては知っている。だけど経験したことがない。実体験としての理解はできていなくて毎回少し混乱する。どういう感情で生きているんだろう。生きてるのっておもしろいじゃん。
この「かと言って死にたくもない」のは死ぬのが怖くて勇気がないのか、死ぬほどの絶望はしていないのか、痛いのが怖いのか、死ぬ方法を考えるのも億劫なのか、どれに該当するんだろう。私は「死ぬ気がないなら諦めて生きていくしかないじゃん派」なのだけど、諦めてそこに振り切ることもできないということ?
となると、生きるも死ぬもきっかけがあればどちらにでも転がれる自由さはあるけど、現状どちらにも覚悟を持てていないという解釈でいいんだろうか。この筋立てあってる?
仮に筋が合っていたところで体験していない以上感覚は肉薄してこない。
近い経験では3年間足しげく通っていた無料漫画サイトへのアクセスをやめたことくらいか。先週の展開を覚えていないのに毎日アクセスして見る意味がないと気づいて急にやめた、惰性の時期を多分に含んでいた。
おもしろくて読んでいた作品ももちろんある、そんなにおもしろがっているなら買うだろうと己を信じてすっぱりやめた。結局どれも買っていない。まあそんなもんだろう。無料だからすることはなくなっても困らないものだと知っている。お金をかけたいと思えないものに、お金で得られない時間を費やすのはかなりつまらない。無料分に費やしていた時間は有料積み本たちに充てる方がいい。そういう考えがある。
「生きていることは楽しくない」「かと言って死にたくもない」のは、どちらにも希望を持っているのだと思う。
のめりこめるものが見つかれば「生きてるのっておもしれ~」とわくわくするだろうし、立ち直れない絶望が迫れば自決も考えるだろう。そうした姿は抗えない何か大きな意図によって指針を示してもらう日を口を開けて待っているようにも見える。悩んでいる時間や揺れている時間が好きという人もいるらしいし(これもあんまりわからない感覚、悩むのってそんなにおもしろいのか?)。
生きていればあとから「いややっぱだめだわ」と思って死ぬことはできるけど、一旦死んでから「やっぱり生きて~」と思っても同じ時代の同じ肉体、同じ精神に生まれることはできないんだからとりあえず諦めて生きる方に全身で転がってみれば、とは思う。
私はとくに死にたいと思ったことがなければ「生きてるとおもしろいことがあるし、せっかく生まれたんだしもう少し生きてみるか~派」なのでこの肉体を維持している。ただこれは「死にたいと思ったことがないメンタル強者」の意見なので、まじに死にたい経験をした人たちにしてみれば狂人に見えるだろうし、こういうことを言う人間をめちゃめくちゃ怖く感じるであろうことも予想できる。
なのでもちろん無理強いはしない。好きに生きて好きに死ぬのが一番いいし、人格を疑われそうなことを承知で書くと、なんなら自決がもっとも人間らしい生き方だと思っているくらいなので。他に自決する動物っている? という意味でです。念のため、一応、予防として書いておくと自殺を推奨しているわけではありません。その死に方を否定しないし、諸手を挙げて賛成もしない。
とは言いつつ、生きるにせよ死ぬにせよ覚悟を決めないことには生きるつまらなさはついて回るわけで、さっさと腹括る方が楽だよと思う。実体験で。もちろん無理はいけないから好きなタイミングで決めればいい。人間なんて自分のために生きて死ぬしかできないんだから。
■6月24日木曜
サンキュータツオ『もっとヘンな論文』をちまちま読む。競艇場の場の論文が好きだ。抒情的。競艇場に言ってみたくなる。パチンコや競馬などおよそギャンブルと名のつくものに興味がある。一切したことがないから。
親にとっても子にとっても生まれること自体がギャンブルだからそれ以上の賭けをする必要も意味もないが、せっかくなので生きているうちにいろいろやってみたい。ビギナーズラックがあっても理性でやめられるうちに。
こういった「誰かがまとめた誰かのおもしろ」を読んでいると自分でそういうものを探す力が失われいてるのを痛感する。
元々この作者のような論文探しはしていないが、漫画や小説も映画も「あの人がおもしろいって言っていたな」というフィルターがかかる。よくも悪くも。誰かがおもしろいと言っていたものが自分にもおもしろく感じられるかはまた別だが、人のジャッジを経由しないと自分のジャッジの俎上に上らないのは余りにも情けない。
人の意見を聞くという意味では大事なんだけど口を開けてただ待っているだったり、そこから何も考えず停止線でブレーキ踏んでるのは自己嫌悪対象になる。考えることをやめると時間の密度が10分の1くらいまで減る気がする。昔の男が「お勉強しなさい、考えることをやめてはいけないよ」と言っていたけど今さら死に際の弁慶くらいぶっ刺さってくる。
今の情報量と行きかう速さはすさまじく、人が投げるボールを回避するのは正直難しい。でもインターネット、ひとまずSNSを遮断できればいい。さすがにネット回線を落とすのはデメリットがあるので本を読んだり勉強することでSNSの時間を減らすようにしている。他のことをしている時間が多くはないので減ってるようないような体感だけど、他のことをしている以上、SNSの時間は確実に減っていると言える。これぞ意志の力よ。
SNSは本当におもしろいのだけど、最近は疲れる。つらいばかりの炎上、嫌なニュース、コンテンツの表層だけ消費していく自分、コンテンツになれない自分、知らない誰かをうらやんでいる自分、常に誰かのおもしろさのおこぼれをもらっている。好もしくない気持ちに心が寄っていく。この重たく粘ついた引力から逃げていきたい。変わっていきたい。
どんな経験をしていきたいか、何が詰まった脳にしたいか、どんな引き出しを増築したいか、ひいてはどんな人生をやりたいか、自分で選んでいきたい。自分がどんなものをおもしろく感じそうかを自分で判断していきたい。私は誰の人生をやってると思ってんだ? 自分のだろうが。
↑現代の哲学では「自分の本当の肉体はコールドスリープ的な夢を見せる機械に入っていて、今のこの自分はコールドスリープ中の”本当の自分”が見ている夢」という可能性をはっきりとは否定できないらしいです。大河さん曰く。何年か前に聞いた話なので2021年時点でどうかはわからないのですが(なぜならこれも人が聞いたおもしろをごっつぁんしているだけでアップデートしていないから)。
だから「自分の(人生)だろうが」と書きましたが、厳密に私が推し進めている人生ではなく、誰かが見ている夢だと思うと足元が歪んできますね。それもまたロマンだ。哲学も科学も興味ある。
■6月25日金曜
夫の通院に付き添う。久々の付き添い成功。
本屋を冷やかし、お昼を食べ、もらいもののスターバックスのチケットの期限が迫っていたので参拝がてらスターバックスへ行った。
神社にいたとき、トンボを見ながら「複眼って脳への負担大きくないのかな」「トンボは「私はどこから来てどこへ行くのか」なんて考えてないから大丈夫なんじゃない? 思考って大きい負荷だから」「餌! 餌! 天敵! 天敵てんてき! くらい?」「いや、ふーんふーんふーん、キュッキュッキュッ(カーブ)、ふーんふーん休憩~、くらいよ」「わはは」などと話す。
「でも実はトンボが超高度生命体で人間の調査に来てたらおもしろいよね。愚かだから滅ぼそうかな~とか」
「今の科学では解明できてないから可能性あるね」
何事にも転用できる超便利な言葉。
おみくじを引いた。相変わらず「アーごもっともでございます」となる内容。
副収入的にひとつやろうとしていたことがあった。心ではそんなにおもしろくなさそうだと思っていて、おみくじの結果から、少なくとも今やることではないのだろうな。そういうことは始めても続かないし、億劫になってしまう。結局はやりたいことをやっていくしかない。
「やりたいことをやろう」って時代柄毎日まいにち書かれるけど見つからないと濃いめの呪いだよなあ。見つからなくて苦しんでいる人もいるだろう。
でも心としてはやりたくないことよりはやりたいことに気持ちを振っていきたい。私が夢中になれることってなんだろう。いろいろ途中まではできる方だと思うけど、始める前からわくわくして、寝る間も惜しみたくなるようなことって?
見つからないまでの苦しみは見つけるまでも楽しみと思うしかない。「王を追い詰めるための最短の一手が、最も美しい一手だとは限らない」みたいな一文を思い出す。小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』より。超愛の本。
ユニクロで服を買う。チノパンとTシャツ。「そのチノパン今までで一番痩せて見えるよ」と夫に言われる。夫と知り合ってから今が一番痩せているというトリックも効いている。
■6月26日土曜
久しぶりに駅弁片手に祖父の家の片付けに行く。家の窓を開けられるだけ開けて、お墓に花を飾って、お線香を焚く。墓地近くの空き家に猫が何匹か住み着いており、見るのを楽しみにしている。猫はいつ見てもいい。
主に母の話を聞いており片付けは進まず。「世にも奇妙な物語」などテレビドラマもいくつか見た。三途の川アウトレットのありそう感いいなあ。小さいころは「世にも奇妙な物語」があると聞けばテレビにかじりついていた。思い出のドラマ集。
プロレス番組も見た。思ってたよりも動きはゆったりしていて、まじのケンカではなくて見せ物なのだなあと知る。
広い意味での暴力はあるものの、ジャンルとしては即興劇だ。そう思えばもう少し取っつきやすいかもしれない。でも怪我してるのは痛そうであんまり見ていられないんだよなあ。プロレスはまだ少し遠い。スポーツ全般が遠い。もう少し身近にしておきたい。
母に「痩せた?」と聞かれたので勢いづけて走ったりしたいな。言うはやすし、行うはかたし。
深夜アニメにアンダーグラフのCMがあった。「ツバサしか歌ってない一発屋」と揶揄していた知り合いがよぎる。
というかこのアニメの作画めちゃめちゃ平成初期だな。ちょっと驚いた。紫の僕っ娘エンジニアの人がかわいいですね。
なんとなく見ていたけどこのアニメ今日が最終回? エンディングに出てくるサブキャラクターたちがひとりもわかんね~、知ってれば「あ、あの子だ」って思えるいい時間を味わえね~。
政治への風刺で再放映してたのかな。スポーツと政治の切り離しを求める内容だったので。
あの平成初期作画アニメのあとに美少年探偵団やるのもすごいな。作画の圧が強い、気合い入れすぎではないか。美の暴力。
こちらも最終回だった。西尾維新はいつ何を見たり読んだりしても想定している西尾維新感を250%増しで来るから嬉しいな。食べたい味の真ん中をやってくれている。
『クビキリサイクル』の334ページらへんで誇張ではなく必ず泣く。成長を感じるからかなあ。他に誇張なく泣くのは漫画『最終兵器彼女』の1巻です、なんでかわからないけどあれはほんとにだめ。泣かずに読めなくてティッシュがもったいないから実家に置いてある。あれどうして泣いちゃうんでしょうね。ぼんやりした子が大きなことに巻き込まれるのには弱いのかもしれない。
それで言うと西尾維新作品はわりと意志の固い人間が出てきて、それはそれで嬉しい。
おわり
スマホからの投稿だとフォント設定もタグづけもできないんですね。帰ったらフォントなどよくします。